新着ムサビ日記

たたずまい

最初から最後までじっと見る作品もいいけれど、
作品を目の端にとどめながら、
作品とは直接関係の無い、
とりとめのない話をしたりすることのできる作品もいいよね、
ときどき作品を見たりもして。

一昨日、作品の展示設営があらかた終わった学部同期の友人との会話。
もっとも贅沢な卒制展の過ごし方。

2012

あけMAUしておめでとうございMAU。
みなさMAUによい年になりMAUすように!

続きを読む ≫

思いつき

(撮影や提示などの)手法・技法によってジャンル分けされている時代が、早く終わると良いなあ。

食堂での会話でふと思ったこと。

映像作品をカテゴライズする意味を、もう一度考えた方が良い気がする。

まー、単純に公募展とかの募集ジャンルでしっくり来ないことが多いからなんだけど。

伝えるのではなく、伝わる

私信


Macを本格的に使い始めたのは大学3年に今の研究室に居始めてからで、それまではずっとWindowsだった。
現在でも制作はWindowsで行っている。ソフトウェアの対応OSの問題があるためというのが主な理由だが。
それから学年が上がり、MacBook Pro(MBP)を購入した。
それが僕にとって最初のMacで、この文章もそれで書いている。

MBPを選んだのは、大学のiMacと自宅のWindows PCとの制作データのやりとりを円滑にするためというのが主な理由で、かなり事務的な理由で選んでいた。
レンダリングした映像ファイルなど、GB単位でのデータを扱うのが常なので、HDDのファイルシステムを共通化しておかなければHDDを認識することすら出来なかったためだ。

またプレゼンテーションをするためのツールとしてもMBPを選んだ。

4年になってゼミに所属すると、ほぼ毎週、担当教員との面談がある。
そのときに面談前の1週間の成果物やアイデア、進行スケジュールを見せるための道具が必要だった。
それはスライドを用意するほど用意周到なものではないが、その場の状況に対する反応が求められるプレゼンテーションの場なのである。

僕の場合は映像効果を構築する作品のため、撮影した素材と効果を適用した映像を見比べることが頻繁にあった。
そのため、より映像再生のオペレートがしやすいインタフェースを備えた道具が必要だったのだ。
映像のフルスクリーン再生はもちろん、ループ再生、スクラブ再生、フレーム単位の指定時間へのジャンプ、コマ送り、再生スピードの調整、別の映像との同時再生、次のファイルへ切り替えのレスポンスなど、映像を再生しながらディスカッションを行うのに必要な機能を搭載したアプリケーションが僕には必要だった。

そしてそういった機能を使うとき、煩雑なメニュー画面を行き来することなくスムースに操作できるレベルになければ意味がない。
Mac OS X(Leopard以降)に搭載されているQuick LookやQuickTimeはその要求に非常に高いレベルで答えてくれている。
またMBPに搭載されているバックライトキーボードとマルチタッチトラックパッドが、その操作性をさらに高めている。
※映像を見せるときは部屋を暗くしてみせることが多く手元が見えにくいのでキーボードが光っていると助かるのだ

また急に映像素材の撮影地の話になっても、瞬時にブラウザに切り替えてGoogleマップを表示させるという行為が2、3秒で出来る応答速度も重要だった。

もちろんPCがなくても状況・経過報告となる面談は可能だ。
しかし、映像を見ることで短期的な目標と長期的な目標をスムースに行き来しながらディスカッションすることの出来る環境そのものが、僕にとってはMBPだった。

また多数の人たちがいる前でのプレゼンテーションでもなくてはならないツールだ。
特にKeynoteは他の類似ソフトを使う気にさせないくらい、プレゼンテーションの内容そのものに集中するためのUIデザインになっている。
正直言って、最初に挙げたデータのやりとりのためというより、Keynoteを使いたいがためにMacを選んだと言い換えてもいいくらいだ。


Keynoteの出番である卒業制作の中間発表でのプレゼンテーションは、Steve Jobsのプレゼンテーションを参考にした。
その際、OS Xの一部機能や、特にKeynoteはJobsのプレゼンテーションのためにデザインされたということも知った。
どおりで上に書いたような「人に見せるための機能」がOSレベルで搭載されているわけだと。

プレゼンテーションはYouTubeに上がっている過去の製品発表イベントの映像を見ながら、これから生まれてくる作品への期待感を高める内容を構想した。
卒制の中間発表のプレゼンテーションはその場で非常に高い評価をもらった。

もちろんSteve Jobsのように壇上をゆっくり歩きながらプレゼンテーションしたわけでも、One more thingがあったわけでもないが、
自分が伝えたいことだけをただ伝えるのではなく、他者へ伝えるべきことが伝わるようにすることに集中した。
正直、それまでプレゼンテーションを行うことはあまり好きではなかったのだが、この体験を通してプレゼンテーションの醍醐味を知った。


発表後、目の前にいる人々の表情が笑顔になっているということ。
そしてその様子を見ることが出来るのは発表者だけだということ。

そのときプレゼンテーションも作品の一部であるということの本当の意味を知り、同時に制作と同じくらいのプレゼンテーションの楽しさを知った。


これに気づかせてくれたのは、あなたのおかげです。
ありがとう。

あなたのプレゼンテーションを、もう見られないことがとても残念です。
安らかに眠ってください。

タイトル

作品のタイトル、どうやって決めてますか?


学部3年の終わり頃から、作品につけるタイトルを考えるときに以下のようなルールに則ってつけている。

  • 英語でつける場合は、作品の映像効果を表す言葉
  • 日本語の場合は、作品の映像効果によって映像で実際に起こっていることを指す言葉
  • モチーフに関係する言葉はその必要があるとき以外、含まれないようにする
このルールを使って作品のタイトル考えるようになったのは、制作の流れと関係している。

制作時にタイトルの問題が出てくるのはまず、撮影した素材や、編集ファイルをコンピュータに保存するときのプロジェクトフォルダ名を決めるときだ。
なるべくエラーの発生要因を減らすため、アルファベット、いわゆる半角英数でフォルダ名をつけている人は多いだろう。
僕もそのうちの1人なのだが、フォルダの名前を打つ際に手が止まってしまうことが多かった。

しかし、制作の開始早々から手を止めたくない。
特にその波に乗りはじめているときは。

そこで上記の「英語でつける場合は、作品の映像効果を表す言葉」でフォルダ名をつけるようになった。
そうなった理由は、映像効果のアイデアが出てから制作に移ることが僕の場合は多かったため、映像効果を現す言葉を考える方がユニークな名称を導き出しやすかったからだ。

またこれはフォルダ名だけではなく、作品に付随する種々のファイル名の基本にもなっている。
こうしておけば、アプリケーションの「最近使用したファイル」のリストにファイル名だけ並ばれても、それぞれがどんなファイルか一目で分かる。


そして制作が進むにつれ、作品の全体像が表れてきたとき、自分の作り出した映像効果によって発生する現象が具体的に目に見えてくる。
日本語のタイトルを考える場合は、その発生した現象を言語化したものをベースにしてはじき出す。
言語化と書くと難しそうだが、端的に一言で表したり、複数の単語を挙げたりするだけだ。

この最初の言語化のとき、説明的すぎる言葉が並んだりすることがある。
そういうときは、より抽象化した言葉への言い換えをする。
僕の場合は「…ということはつまり?」を自問自答して導き出す。

抽象化に伴い他言語の言葉になる場合もあるだろうが、説明的すぎる言葉から脱せられる。
作品によって発生する現象を、具体的だが説明的ではない言葉で表現すると、素直な言葉になっていくように思う。


最後に検討することは、モチーフを表す言葉をタイトルに含めるか否か。

これについては本当によく悩む。
モチーフを想起させる言葉がタイトルに含まれていたときに、先の「作品によって生まれるする現象」を破壊する場合があるからだ。
特に、モチーフの性質のほとんどを消すことで生まれる現象を活かした作品で、モチーフに関係する言葉をタイトルに含めてしまうと、逆効果になることが多い。

しかし、モチーフの性質をより強調することで作品が成り立っている場合は、関連する言葉を含めた方が良いだろう。
更にそれが強調されるためだ。

この見極めがいつも難しく、ギリギリになってタイトルから外すことが度々ある。
作者にとっては、作品中でモチーフの性質を消しているという意識があまり働かないからだろうか。
この辺りは第三者からの意見をもとに判断することが多い。


自分の映像作品のタイトルを決める際は、ほぼ以上のようなプロセスを経て決めている。
ときどき直感的に思いつくこともあるけれど、上記のプロセスを経た言葉と比較するようにしてどちらか決めたり、組み合わせたり。
映像の場合は作品の冒頭でタイトルを流すか、最後に流すかも関係してくるので難しいけれど。

こうやってタイトルを決めていくと、個人的には作品を補完するような言葉で構成されたタイトルが生まれやすいように思う。
作品+タイトルによって、更に作品への理解が深まっていくような方向を目指すと、より印象に残りやすい作品になるのではないのかなと思う。

体験を買うこと

ちょっと前にBIALETTIの直火式エスプレッソ器具を購入した。
聞くとイタリアではほぼ一家に一台はあるそうだ。
写真が手元に無くて申し訳ないけど、プロダクトとしてデザインがとても格好が良い。

文字通り毎日使う日用品で格好良いものが身の周りに当たり前にあって、しかも毎日使っていれば、そりゃ自然とセンスが磨かれるわなって思う。

そういえば以前誰かから、「毎日使うものほど自分が納得したものを使った方が良い」と聞いた。
お茶碗やコップ、箸などの食器や鞄とか毎日必ず触れるもの。
もちろん高い物を買えということでは無く、値段も含めてそれを毎日使うことに妥協せず納得できた、自分がこだわったものであること。

デザインでも機能でも「妥協せずに納得できたものと接する時間に対してお金を払っている」という考え方。

ディスカウントショップ、レストラン、映画館とでコーラの価格がなぜ違うのか。
それは、その時その場所でコーラを飲める時間価値や体験価値が異なるからなんだそうだ。
各々の価格に納得してお金を払えるか否かは、人それぞれだからなんとも言えないけれど、
そういう時間や体験に対してお金を払っているという意識は、上京してから抱くようになった。

元からそういった意識が一般的で、自分の意識がそれにようやく追いつけたのか、世の中がそういう方向に変わっていったのかは分からない。
ひとつ言えるのは、良いデザインのもの、つまり、より良い時間を体験できるものが身の回りに並ぶようになれば、世の中もっと豊かになれる。
そんな風に最近思う。

ツール

先日、学部からの友人と自分たちが使う「道具」についての話をしていて思ったこと。

話題となったのは、似たような機能を持つ道具を別のものに乗り換えるとき、一体どんな考えで既存の道具から新しい道具に切り替えるのかということだった。


結論を先に述べると、
“いかに楽に、速く、質の高いイメージを仕上げ、目標のレベルに達せるか”
ということが道具を使う目的なら、別に何を使ってもいいという考えになるのではないか、
そんな風にまとまった。

それで、その道具や、道具の持つ機能を使っていると生まれる独特の発想や、その発想が生まれる可能性の大きさというのが、道具を選ぶときの重要な要素にもなるよなあ、という話も出た。


そして最も重要なのは、その道具を使っていて楽しくなるか。


使っていると楽しくなるというのは、上に書いたことがクリアされたときに経験できることだと思う。

特に、作品の制作にはそれなりの時間がかかるもの。

最も時間がかかるのは自分との対話。
次に時間がかかるのは道具を使っているとき。
しかも道具を使っているときも「自分との対話の時間」が食い込んだりする。

だから自分が使う道具は、それらを邪魔しないものを選んだ方がいいんじゃないかと思う。


使い方を覚えるのが大変だからとか、扱いが難しそうだからとかいうのを、度々周りから聞くことがある。
そういう人に気づいて欲しいのは、使い方を覚えたり扱うのが難しいからこそ、そこから生まれるものに価値があるということ。

誰でも作れてしまうものに価値を与えるのは、最も難しい。
そこに全く別の価値を与える必要があるため。


僕は(特に個人的なことにおいては)難しいことに挑戦して派手に失敗しても全く気にしないつもりで物事は進めていきたい。
その方がスムースに何かを達成するより、いろいろ発見することが多いから。
目的の達成よりも、自分の視野を広げるような発見をすることを重要視したい。


そして、ひとつの道具を極めるために、いろいろな道具を知っておく必要があるように思う。
そうすると、自信を持って「この道具を私は使えます」と言い切れる。

同時に、その道具では出来ないことも言える。
他の道具を使えば出来ることは、そのときその道具を使うか、使える人に頼めば良い。
その道具で出来ること、出来ないことを知り、出来ないことに対する解決策を提示できるようになれば、「その道具を極めた」ということになるのではないだろうか。


本文中の「道具」を別の単語に置き換えても、いろいろと共通する話だなと思うこの頃です。