便利ですてきなこの時代

ムサビズキさんのこの記事を見て、自分の高校時代の国語の授業を思い出しました。
中島敦の「山月記」を勉強していた頃の自分の国語のノートを見返してみましたが、
「山月記」のページにはぽつぽつと書かれたメモ程度の文字と、
泣いている虎の落書きぐらいしか残っておらず
(一応授業の内容をふまえた落書きであることは確か)
ああこいつ何も学んでないな感が丸出しでした。

のの子は小中高大と繋がっている学校にずっと通っていたのですが、

5段階で「1」さえ貰わなければ
そのまま大学までいけちゃうようなゆるゆる環境だったので、
授業なんて全然聞いていない人もいました。

現代文の授業が特に酷かったです…。
高2の夏休み前に、先生から
「2学期から『こころ』を教材として扱うので、休み中に読んできて下さい」
って宿題が出たのに
ちゃんと読んできたのはクラスの3分の1ぐらいだったことがありました。
それで先生が仕方なく最初から最後まで授業で読んでくれたんです、
(授業時間足りなくなっちゃうのに)
でもほとんど皆寝てて。
あらかじめ読んできた子が退屈で寝るのは分かるけど、
寝てるのほとんど読んできていない子でした。

読んできていない子は単にズボラだってのもあるんですが
「こんなつまらなそうなの読まないよ」
と言う人がすごく多くて。
これを聞いたとき、私の中ですごくひっかかったものがありました。

「つまらなそうだから読まないってことは…
 第一印象だけで判断してるのか??」と。


うちの学校には朝「読書の時間」っていうのが設けられていました。
好きな本を読んでいい、っていう時間なのですが
「恋空」のような、携帯小説が書籍化されたものを読んでいる子をよく見ました。

私は携帯小説ってチラッと読んだことしかないので詳しくないのですが、
印象としては「難しい漢字が少ない」「読みやすい」でした。
自分と同世代の人が書いているから、
難しい意味の言葉も漢字もほとんど無いし
☆とか♪で感情表現されてたりするから深読みする必要がない。


これだけ読みやすいものが普及していれば、
「こころ」のような作品を読むことを嫌がるのは当然かもしれない。
でも、個人的にはそれだけじゃやっぱりいかんと思います。
「こころ」とか「山月記」っていうのは
自分よりずっと年上で学のある人が書いているから
読みづらいし難しいけど、
『分かろう』として読むことがとても勉強になるんだと、
今になって思います。

難しい字は辞書をひいて、
分からないところは何度も読んで。
それで「この字はこう読むのか」「ここはこういう意味なのかな」って
積極的に学び理解していく というプロセスがすごく重要な気がします。
これが携帯小説には無い訳です。


この時代ってなんでもかんでも便利になっている。
遠くにいる人とも簡単に連絡がとれちゃう携帯電話や
大量の情報を入れられちゃうパソコン
いつでも音楽が聴けちゃうi pod
フィルムも暗室作業もいらないデジタルカメラ。
「難しいことが簡単に出来る」時代ですね。

でもそれだけでいいのかなぁ。
これから色んな「難しいこと」が簡単にできるのが当たり前になってったら
大事なものを失ってしまいそうな気がする。


土曜日に表示方法論という授業で
暗室での作業を行いましたが、
暗闇で何も見えない中手探りで作業したり
薬品使って色んな行程を追っていったりするので
やはりデジカメってのは便利なものだな〜と実感しました。

しかし一連の作業が終わってネガが出来た時は
すごく嬉しかったです。
みんなしばらくキャッキャしてました。笑


うまく言葉には出来ないのですが、
こういうものがなくなっていくのはどうなのかな〜と思います。
便利な世の中を否定している訳ではないのですが、
なんでもかんでも分かりやすく便利にすりゃいいものなのかなーと
疑問に思ってしまいました。
便利なことは否定しないのですが…。


久しぶりに長文になってしまいました。わわー
山月記は読み返したいですなぁ…

投稿者:nonoko : 2009年05月17日 22:50

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