ライトな人生

手羽さんのエントリーを参照しましての、今日の記事。


結論から言うと、私はハガキ職人も文通もやっていませんでした。


でも、ハガキ職人や文通にかなり憧れ、そしてほんの少し足を踏み入れてみた人ではあります。


私は幼稚園の時、ザ・ニュースペーパーが週1くらいで出演していたラジオ番組、『森本毅郎スタンバイ』を聞いていました。
母親が聞いていたから自然と耳に入れていたのですけど、今考えると、うちの親ってどうだったのと不安になります。
そのラジオにニュースペーパーが出なくなる、と知ったとき、私はTBSラジオに手紙を送りました。
いつも聞いていました、ニュースペーパーさんが出なくなると知ってさみしいです、というような、ありきたりな手紙だったと思うのですが、それが番組内で読まれたのです。
私はうれしくて、母とキャーキャー言っていました。
あとから聞いてみれば、母は「幼稚園児が手紙を送れば絶対に読まれる」と計算していたようで、ちゃっかりテープに録音までしていたのですが。笑
その放送の中で、ニュースペーパーのどなたかに、「とりこちゃーん」と呼ばれたときは本当にびっくりしました。
私の名前はわりと珍しいので、知らない人が自分の名前を呼ぶ、という現象に、当時は慣れていなかったのですね。今でも下の名前を知らない人に呼ばれると、どきっとするくらいです。
このときの私はハガキ職人でもないし、ネタを提供したわけでもないけれど、不思議なつながりをとても面白く思いました。


そんな私の母は、紛れもないハガキ職人をやっていました。(だから計算高かったのですね)
あまり話したがらないので分からない部分も多いのですが、高校生くらいのとき、オールナイトニッポンにハガキを送っていたみたいです。
読まれることもけっこうあったようで、後日、オールナイトニッポンのパーソナリティの方と会った際、覚えられていてびっくりした経験もあるとか。
字がきれいだったので、字で記憶に残っていたそうです。あと、母もちょっと珍しい名前なので、そのせいもあるのかも。ペンネームは怖くて聞けていないのですけど。
ハガキ職人だった母の遺伝子は、確実に今の私を形づくっていると思います。


かくいう私もLF+R時代のオールナイトニッポン(SUPER!とか.com、rのあったころ)を聞いていて、ハガキ職人たちに憧れました。
でもハガキを出すには至らなくて(男の子っぽいネタについていけない部分が多かった。ガンダムとか、ジャンプのネタとか)、どんどんパーソナリティと職人が仲良くなっていくさまを、いいなあいいなあ、と聞いているだけでした。
そのころの職人さんの中には、構成作家になった人もいるのです。びっくり。
そもそも職人さんたちを見いだした構成作家さんが、職人→構成作家の道を歩んでいる人だったので、そう不思議なことでもないのですが。


そんな、職人さん憧れるばかりだった私にも、「書き続ける体力」の原点はあります。
私の通っていた小学校で義務づけられていた、毎日の「日記」です。
日記は、1年生の夏休みから卒業までの約5年半、書かなければなりませんでした。
作文の練習、という意味合いがあったそうですが、いやあ…、すごいですよね。
今でも当時のノートがほとんど残っています。たまに読み返すと、面白い。
基本的には、児童が書いた日記を毎日担任の先生が読み、赤で花マルと(誤字脱字、変な文章の訂正を含む)コメントを付けて返してくれるだけだったのですが、私にはもう1人、赤を入れる人がおりまして。
母です。
彼女はハガキ職人であった以上に、大学卒業後しばらく雑誌で文章を書いていたらしく(こちらもあまり話したがらないのでどんな感じだったのか分からないのですが)、ものすごく厳しい校正さんでした。
小学校1年生に、平気で校正記号使ってくるんです。笑
それを5年半、ほとんど毎日やったわけですから、それはもう、「体力」とかそういうものを越えています。
半ば強迫観念に近いものがあって、中学校に入ってからもいろいろな媒体で日記を書き続けています。
私にとって日記は物心ついたころ、というか、まともな字を書けるようになったころからずっとずっと続いているもので、もう消えようがないのだと思います。
言葉に助けられている部分もあるし、言葉にがんじがらめになっている部分もあるけれど、大切なものであることに変わりはない。


そんな生き方をしてきました。


と、strongで宣言してみます。
う、うまいっ!


ちなみにニュースペーパーに手紙を書いた便せんは、母のお手製。
幼稚園の年少さんだけ受け持ってくださった先生が大阪に引っ越してしまい、その先生と文通するための便せんを作ってくれたのです。
「とりこちゃんはんこ」を作って(多分注文したのだと思う)、ぺたぺたと押しただけものでしたが、先生はとても喜んでくださいました。
その先生とは今でも年賀状のやり取りだけはしていて、成人式のときにはおめでとうカードもいただきました。
先生との文通は、小学校いっぱいやっていたのかなあ。
知っている人とのやり取りだったので、あまり「文通」という感じではなかったのですが。


そうだ、忘れていたけど、浪人時代、とある雑誌にほぼ毎号、感想のおたよりが掲載されていました。
送る人自体少なかったのでしょうが、暗い浪人時代を過ごしていた私にとっては、一筋の光だったかもしれません。笑


それから、小学校低学年のころは、「週刊みちくさ家」みたいな雑誌を作っていました。
あまり続かなかったけれど、今描いているマンガにすごくつながっていると思います。
ちなみに母も小学生のころ、同じようなことをやっていたそうです。そんなもんか。


先日、母が、「好きなこと書いて暮らせたらいいわね」と、ぽつり呟いて、私は少し胸が痛くなりました。


ではまた明日。


michitori◎hotmail.co.jp(◎→@)

投稿者:torico : 2007年11月11日 17:44

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