リアルな美大の日常を
Search
Piper「ひーはー」@本多劇場
お芝居は、文句なしに面白く。
キャストが大好きな人ばかりで取ったチケットなので、満足です。もちろん少々の不満はありますが、それはそれこれはこれ。
作・演出の後藤ひろひとさんが得意とする、すれちがいがすれちがいを呼ぶ物語。噛み合うまでに時間はかかれど(演技も流れも)、噛み合った瞬間の笑いがたまらなく。
実はもう1度見に行くので、理解しきったあとの面白さに期待です。
演劇を見に行ったときのもう1つの楽しみは、多分チラシ。束になって席に置いてあったり、半券を切られるついでにもらえたりします。それを開演までや閉演後に読んで、次の予定を立てるのが、わくわくするのです(立てるだけ立てて見に行かないことも多いのですが)。
今日もらったチラシ束の中に、学生演劇の主宰者のインタビューが載っているチラシがありました(たくさんのチラシを束ねる役割をしているチラシです)。
それを読んで、やっぱりどうにも釈然としないなと思う。
彼ら曰く、「演劇がもっと身近なものになればいい」「もっとラフに見に来てほしい」。
芸術文化学科で勉強していても、似たような言葉はよく耳にします。「美術がもっと身近なものになればいい」「もっとラフに美術館に来てほしい」。
私はつねづね、これを疑問に思っています。演劇や美術は、私たちにもっと身近であるべきものなのでしょうか。そう意識すること自体が、演劇や美術を私たちから遠ざけてはいないでしょうか。
私は、演劇も美術も、「特別なもの」と捉えています。
毎日生活していく中では、決してありえないもの。そんなものが、身近になってしまったら怖ろしい。「演劇・美術=非日常」とは言い切れませんが、日常であるとも言い切れない。そんなものを、学校帰りにふらりと見に行けるようになってしまったら、私のある場所って、すごく簡単に揺らいでしまうのではないかと思うのです。
誤解を怖れずに言えば、演劇も美術も、気持ち悪いし恥ずかしいし、さらに言えば大嫌いなのです。私からは、遠く離れた存在。でも、事象としてはすぐそばにある。そんな距離感が心地いい。
「演劇・美術を見ること」は身近であっていい。けれど、「見るときの気持ち」はちょっと遠くにあって、客観視できて、特別であればと思います。
例えば私は、お芝居を見に行く前の日は、ちょっと長くお風呂に入ります。「身を清める」と似ているのかもしれません。それくらいの心意気が、私には必要です。
言うなれば、演劇と美術は恋人みたいな存在なのかな。(私に恋人がいたことはないけど!!!)
デートの前日は、がんばって洋服を選んだり、きれいに髪の毛を洗ったり、荷物を何度も確認したりしますよね?(しないのかなーしないのかなー)
気合としては、遠足に似ているかもしれません。夜、眠れなくなっちゃうような。
そもそも、演劇や美術が「身近な存在」になる必要があるのでしょうか。「特別なもの」「わくわくするもの」であったら、どうしていけないのだろう。
難しいけれど、「演劇や美術は特別なものだと思ってるでしょ?皆さん。でもね、本当はそうじゃないのよって、演劇とか美術みたいな特別なものをやってる私たちが教えてあげるよ」的な姿勢が、作る側にあるんじゃないかなあ、と思うことがあります。ちょっと高飛車、に見えることがある(もちろん、それは一部の人の考え方ではあるのですが)。
「特別なもの」であっていい。それを認めるだけで、ずいぶん人の流れ方って変わってくるんじゃないのだろうか。
とっかかりは、「特別なもの」でいいのです。その特別が無茶苦茶に楽しければ。
私は高校1年生の時、学校の行事で歌舞伎を見に行きました。当時の私は演劇部に所属していたくせに演劇にまったく興味がなく、「歌舞伎なんてがちがちでつまんないんだろうなあ」と思っていました。
けれど実際に行ってみれば、とても楽しかったのです。その楽しさを助けてくれたのは、イヤホンガイドでした。芝居についての解説を、生でしてくれるのです。聞いている人全員が、思わず笑っちゃうほど面白い瞬間もあって、見終わったあとはすっかり歌舞伎が好きになっていました。
こういう体験が、いろんなところで、いろんな人に起こればうれしい。そして、私はそれを起こすための勉強ができる環境にいるのですよね。
「特別=楽しくない」は絶対違う。「特別、でも楽しい」。そうすれば、その特別がつながり、楽しさがつながる。
ものすごくひとりよがりな意見だけれど、これが今の私の、演劇や美術に対する思いです。
大嫌いだけど、大好き。その狭間で、ぐらぐらと迷ったまま、もう3年くらいが経とうとしています。
そして明日も、デート。楽しみ。
ではまた明日。
michitori◎hotmail.co.jp(◎→@)